長屋門

長屋門
[宮城県]

–旧武田家長屋門–

長屋門の画像

もとの所在地
宮城県遠田郡田尻町(現在は宮城県大崎市)
建築年代
19世紀後半(明治期頃)
規模
68.7m2(18.8坪)
屋根
寄棟造り、茅葺き
寄贈者
武田 完一 氏
宮城県川崎町有形文化財指定第8号(平成17年指定)

もとの所在地

この門は、宮城県北部の旧遠田郡田尻町で農業を営んでいた武田さん一家の屋敷の正面入口に建っていました。
この門が建っていた田尻町は、大崎平野にあって、なだらかな山並みと水田が広がっています。

門の特徴

宮城県北部では、屋敷の正面に倉や納屋等を両側に設けた「長屋門」が広く見られました。この門は、江戸時代末期に建てられたことがほぼ明らかであり、長屋門の原形と言えます。

長屋門 平面図

建築模型

釜房の家

釜房の家
[宮城県]

–旧佐藤家住宅・旧高橋家馬屋–


釜房の家の画像

もとの所在地
宮城県柴田郡川崎町
建築年代
主屋:19世紀半ば(江戸時代末期頃)
馬屋:19世紀後半(明治期頃)
規模
主屋:148m2(45坪)
馬屋:48.2m2(14.4坪)
家の形式
直屋(馬屋は付属屋)
寄贈者
佐藤 良治 氏(主屋)
高橋 康一 氏(馬屋)
宮城県川崎町有形文化財指定第1号(平成12年指定)
監修:東北工業大学名誉教授  草野 和夫 氏

もとの所在地

この家は釜房ダムによって水没した場所に建っていました。
持ち主から川崎町に寄付され、「川崎町民俗資料家屋」として、2003年まで公開されていました。その後、公園に移築復元しました。

家の特色 ─外にある馬屋─

公園のある川崎町は、東北地方の中では比較的雪が少なく、温暖な気候です。そのため、この家の屋根の勾配は緩く、土間は比較的狭く、馬屋は主屋の外にありました。
この家の馬屋は既に失われていたため、古い形のまま保存されていた別の馬屋を移築しました。




釜房の家平面図

にわ だいどころ おかみ なかま なんど おくざしき

釜房の家 主屋・馬屋平面図 縮尺1/40

もとは広い土間の作業場でしたが、この住居が建った頃になると、作業小屋が外に建てられ、板敷きの「だいどころ」が広げられて、土間をせまく建てるようになりました。
「だいどころ」は、炉が切られていて、煮炊きのほか、火を囲んだ食事や団らんの場所でした。
食器や什器類の置き場で、ときには家族の寝室として使用されることもありました。
日常的な来客への応対や、少人数での集まりなどに使われました。
「おくざしき」の前座敷でもありました。
主人夫婦の寝室と衣類の収納場所でした。
床の間を備えた正式の客間です。

建築模型

本荘由利の家

本荘由利の家
[秋田県]

–旧吉尾家住宅–


本荘由利の家の画像

もとの所在地
秋田県由利郡大内町(現在は秋田県由利本荘市)
建築年代
19世紀末(明治期頃)
規模
床面積427m2(118坪)
家の形式
両中門造り
寄贈者
吉尾 照彦 氏
宮城県川崎町有形文化財指定第7号(平成14年指定)

もとの所在地

この家が建っていた旧大内町は、秋田県南部の本荘平野にあり、冬は雪が多く、寒さのきびしい地域です。
この家に住んでいた吉尾さん一家は、農業や林業を手広く営み、多くの使用人を置いていました。この家は東北地方でも最大級の民家でした。

家の特色 ─両中門造り─

この家の形は「両中門造り」と呼ばれるもので、主屋の両側に二つの出入口を突き出しています。馬屋にある出入口は、家の人や使用人が使っていました。もうひとつの出入口はお客様をお迎えするための特別の玄関でした。



本荘由利の家の見取り図

うまや うまや にわ げんかん げんかん脇のへや ちゃのま かみざしき・しもざしき いんきょ いんきょ脇のへや なんど だいどこ ともべや みじゃ へや

本荘由利の家 平面図 縮尺1/60

農耕用の馬が飼われていました。この地方の「うまや」は主屋の中に造り、冬の寒さから馬を守り、馬の世話にも便利でした。
「にわ」は土間で、冬季や雨の日、夜間などに、収穫やワラ仕事の作業場として使われました。
正式な客を迎えるための入り口です。隣の「へや」とともに前方に突き出して「へや中門」の形に造られています。
主人夫婦の寝室でした。衣類の箪笥なども置いていました。
日常的な来客への応対や、少人数での集まりなどに使われました。
「かみざしき」は床の間を備えた正式の客間で、「しもざしき」はいわゆる次の間です。
老夫婦の居間でした。隣の「へや」とともに後方に突き出して「裏中門」の形に造られています。
次男、三男(主人の弟)の寝室として使われました。隣の「いんきょ」とともに後方に突き出して「裏中門」の形に造られています。
衣類や客布団などをしまっていました。ここの中二階は、物置部屋でした。
家族の日常の居間で、炉(この地方では「ゆるり(ゆりり、ゆるん)」などと呼ぶ)を囲む団らんと食事の場所でした。
炊事や配膳の場所でした。ここの中二階は、使用人の寝室でした。
流しが設けられ、炊事場の一部でした。奥には漬物や味噌などを貯えておきました。
ここは、女子の住みこみ使用人の寝泊まりの場所だったと思われます。

建築模型

月山山麓の家

月山山麓の家
[山形県]

–旧伊藤家住宅–


月山山麓の家の画像

もとの所在地
山形県東田川郡朝日村(現在は山形県鶴岡市)
建築年代
19世紀半ば(江戸時代末期頃)
規模
床面積1682(51坪)
家の形式
妻入り式養蚕家屋
寄贈者
伊藤 重 氏
宮城県川崎町有形文化財指定第4号(平成12年指定)

もとの所在地

この家が建っていた旧朝日村は、月山のふもとにあり、冬は東北地方でも指折りの豪雪地帯です。
この家に住んでいた伊藤さん一家は、農業をしながら養蚕を行っていました。

家の特色 ─多層家屋─

小さな家に見えますが、中は一階、中二階、「ずし」、「上ずし」の4階建てとなっています。 中二階から上は、養蚕や収納の場所でした。この家では採光のため「ずし」に2か所、「高はっぽう」と呼ばれる屋根窓があります。この地域の家にある独特のものです。

月山山麓の家外観図

月山山麓の家 断面図 縮尺1/50




月山山麓の家平面図

にわ うまごや おめえ おへや かみざしき しもざしき

月山山麓の家 一階平面図 縮尺1/40

この地方の農家の「にわ」は、冬季や雨の日、夜間などの作業場、収穫物や桑(カイコの飼料)の乾燥場として使われました。
豪雪地帯なので、小さいながらも内うまやが設けられ、馬(あるいは牛)1頭が飼われていました。
炉(いろり)を囲む、家族の日常の部屋で、煮炊きや食事もここで行われました。
主人夫婦の寝室です。一般に農家の寝室には窓が無く、衣類置き場や寝るだけの場所として使われました。
床の間を備えた正式の客間です。日常的に畳は敷かず、養蚕の場として使われました。
正式に客を迎えるときの「かみざしき」の前室として使われました。日常的に畳は敷かず、養蚕などの作業場や家族の寝室としても使われました。

建築模型

南会津の家

南会津の家
[福島県]

–旧山本家住宅–


南会津の家の写真

もとの所在地
福島県南郷村(現在は福島県南会津郡南会津町)
建築年代
19世紀半ば(江戸時代末期頃)
規模
床面積131m2(40坪)
家の形式
馬屋中門造り
寄贈者
山本 芳美 氏
宮城県川崎町有形文化財指定第6号(平成12年指定)

もとの所在地

この家が建っていた旧南郷村は、標高1000m級の高い山々に囲まれている東北地方でも指折りの豪雪地帯で、昔は冬には他の地域との行き来ができなくなることもありました。この家に住んでいた山本さん一家は、農業をしながらこの地方の木挽き(山の木を切る職人)のまとめ役の一人でもありました。

家の特色 ─馬屋中門造り─

この家の形は、「馬屋中門造り」と呼ばれるもので、土間の前に馬屋を突き出して、その先に出入口を設けています。雪の時期に、前の道路までの除雪が少なくてすむようにできています。雪がたくさん積もると、2階から出入りすることもあったそうです。




南会津の家平面図

うまや いま へや みんじゃ おめい こざ ざしき

南会津の家 平面図 縮尺1/40

土間床に窪みを設け、踏みワラを敷いていました。この地方の「うまや」は屋内に設けられ、積雪の時でも世話がしやすくなっていました。
煮炊きのための炉(この地方では「ゆるい」と呼ぶ)が設けられ、食事の場所としても使用されました。
隠居した老夫婦の寝室でした。「いま」の炉の近くなので、わりあい暖かい場所でした。
食料や食器の洗い場、飲み水の汲み場でした。
炉(この地方では「ゆるい」と呼ぶ)を備えた家族の居間であり、日常的な来客の接待にも使いました。
主人夫婦の寝室で、衣類の収納箪笥なども置いた場所です。
床の間を備えた正式の客間で、この地方では仏壇もここに造ります。

建築模型

鳴瀬川河畔の家

鳴瀬川河畔の家
[宮城県]

–旧菅原家住宅–


鳴瀬川河畔の家の画像

もとの所在地
宮城県加美郡色麻町
建築年代
19世紀末(明治期頃)
規模
433m2(131坪)
家の形式
中二階式養蚕家屋
寄贈者
菅原 知巳 氏
宮城県川崎町有形文化財指定第2号(平成12年指定)

もとの所在地

この家が建っていた色麻町は、鳴瀬川が流れる平野部にあり、たくさんの水田があります。
また、米作りとともに養蚕もさかんに行われていました。この家に住んでいた菅原さん一家も農業をしながら、たくさんの蚕を飼っていました。

家の特色 ─水害にそなえる─

鳴瀬川は、大雨による氾濫が多く、時には家の中まで水が入りこみました。 この家では、二階の床板の一部分を釘で固定せず、水害時に床板をはずして家具や食料を二階に上げられる工夫がされています。




鳴瀬川河畔の家平面図

うまや かって・だいどこ かみのま なかのま でい うらのま うらのま なんど でい(二階) なかのま(二階) しものま(二階) ものおき(二階) ものおき(二階)

鳴瀬川河畔の家 一階平面図 縮尺1/70
鳴瀬川河畔の家 二階平面図 縮尺1/70

手前の農作業用の土間部分も含めた全体を「うまや」と呼んでいました。この上の屋根裏は、馬の飼料用のワラ置き場でした。
右手の「かって」は調理・炊事の場でした。左手の「だいどこ」には炉が切られ、煮炊きや食事、団らんをする所でもありました。
「だいどこ」の“上手(かみて)の部屋”という意味で、「かみのま」とか「おかみ」と呼ばれてきました。
「なかのま(中の間)」は、居間(かみのま)と座敷(でい)との間の部屋という意味です。
ここでは座敷を「でい」と呼びました。床の間など座敷の構えを持つ正式の客間です。
家具や食器什器類の置き場、または三つ目の寝室として使われました。
二つ目の寝室、または家具や食器什器類の置き場として使われました。
当主夫婦の寝室、および衣類の収納場所として使われました。
ここでは座敷を「でい」と呼びました。床の間など座敷の構えを持つ正式の客間です。
蚕室および蚕具置場として使われました。また鳴瀬川の洪水の時には、避難場所としても使われたようです。
中央部分の床板を固定せず、外すと一階と二階が吹き抜けになる造りです。鳴瀬川の洪水の時には、ここから家具や食料を運び上げたそうです。
主に蚕室および蚕具置場として使われました。

建築模型

遠野の家

遠野の家
[岩手県]

–旧菊池家住宅–


遠野の家の画像

もとの所在地
岩手県遠野市
建築年代
19世紀半ば(江戸時代末期頃)
規模
347m2(105坪)
家の形式
南部曲り屋
寄贈者
菊池 一二 氏
宮城県川崎町有形文化財指定第3号(平成12年指定)

もとの所在地

この家が建っていた集落は、耕地が狭く、馬の生産がさかんに行われていた地域でした。
この家に住んでいた菊池さん一家も、農業をしながら馬の生産を行っていました。

家の特色 ─曲り屋─

この家の形は、「曲り屋」と呼ばれるもので、主屋の土間の前に馬屋を突き出したLの字型となっていて、その隅に出入口があります。
「曲り屋」では、人と馬が家の中で顔を合わせながらくらしていました。
この家の馬屋はとても広く、馬4 頭以上、「なや」まで使えば最大で7頭ほど飼うことができました。




遠野の家平面図

まや にわ ちゃのま なかま じょい・ねどこ ざしき おくざしき

遠野の家 平面図 縮尺1/60

もとは主屋のとなりに別棟として建てられていましたが、大正時代(1920年頃)の馬屋改築の際、主屋の土間に接続されて「曲り屋」の形になりました。
冬季や雨の日、夜間などの作業場として使われました。大きな「かまど」は、馬の飼料を煮るためのものです。
炉(いろり)は主に煮炊きのためのものでした。また、食事と団らんも、のちにはここで行ったようです。
正式の客は「ちゃのま」で主人とあいさつした後、この「なかま」を通って上手の「ざしき」へと案内されました。 
「じょい」は、日常的な家族の居間として使われました。左右にある3室の「ねどこ」は、主人夫婦や子供たちの寝室でした。
「おくざしき」の前室で、冠婚葬祭の際、正式の客は縁側から上がり、この「ざしき」へと案内されました。
床の間を備えた正式の客間で、冠婚葬祭の際などには正式の客を迎える部屋でした。

建築模型

津軽の家

津軽の家
[青森県]

–旧奈良家住宅–


津軽の家

もとの所在地
青森県弘前市
建築年代
19世紀半ば(江戸時代末期頃)
規模
179m2(54坪)
家の形式
内馬屋式直屋
寄贈者
奈良 哲夫 氏
宮城県川崎町有形文化財指定第5号(平成12年指定)

もとの所在地

この家が建っていた津軽平野は、冬には強い風と雪が吹きつけるきびしい気候で、豪雪地帯です。米作りとともに、リンゴ栽培もさかんに行われています。
この家に住んでいた奈良さん一家もリンゴ栽培の仕事をしていました。

家の特色 ─長い出し庇 「しらし」─

この家は、土間の前に長い出し庇を突き出していて、雪が降り積もる時期にも家への出入りがしやすいようになっています。
出し庇は、この地方では「しらし」や「ひやし」などと呼ばれています。庇のなまりのようです。




津軽の家平面図

とろじ・まや おしこみ ながし いなべ だいどこ ねどこ じょい ざしき

津軽の家 平面図 縮尺1/40

「とろじ」は入口からの通路土間で、屋内の作業場として使われました。「まや」は主屋内にあるので、冬の寒さから馬を守るのに適していました。
この家では、もともとの「めんじゃ(水屋)」はここだったようです。奥に「ながし」が設けられた後は、押し入れとして使われました。
「ながし」は調理や炊事の場でした。「とろじ」と共に、屋内での農作業の場所として使われることもありました。
刈り入れた稲やもみなどの収穫物を収納しておく倉庫として使われました。隣の「流し」と行き来しやすいよう、同じ高さの板土間となっています。
炉(この地方では「しほと」「ゆるぎ」などと呼ぶ)が設けられ、煮炊きや食事など、家族の日常の居間として使われました。
左右2室に仕切られ、上手側(向かって左側)は年長者の夫婦、下手側は若い夫婦の寝室でした。子供達の寝室は「まや」「とろじ」の二階(「まげ」などと呼ぶ)でした。
「げんかん」から入った前座敷で、日常的な来客はここで応対しました。
床の間を備えた正式の客間で、正式な客を迎えるために使われました。

建築模型

湯田河の松

湯田河の松

湯田河の松の画像

この松は、釜房ダム建設によって水没した湯田河温泉にあったものです。
樹齢六百年と言われ、鶴が羽根を広げているように見えることから、「鶴の松」と呼ばれ、川崎町の皆さんに親しまれてきました。
昭和43年に国道沿いの高台の地に移植され、この地には平成16年に移植しました。

【樹種】ゴヨウマツ
【樹高】6.5m
【幹間】右:1.1m/中:0.9m/左:1.1m 
【参考】「川崎町の文化財 第九集 古木・名木」/川崎町教育委員会発行

水車小屋

水車小屋

水車小屋の画像

水車は水の力を利用して、脱穀や製粉の動力や田んぼへの揚水などに使われてきた機械です。集落単位で共同に造られていたものもあれば、付属屋として個人の所有地の一部に造られていたものもありました。
水車の方式は、その場所の地形や水の量、流れの速さなどによって異なっていました。水の流れが急な山間に設置する水車は、車の上部に「かけひ」で引いた水を浴びせる方式、水の流れが緩い平地の川では、流れる水の中に車の下部を入れて、流れの力で車を回す方式となっていました。この水車と水車小屋は、遠野地方に実際にあったものを再現して建てたもので「水を浴びせる方式」です。
小屋の中には、杵とつき臼が一対になったもの2基と、木製の漏斗と石の挽き臼とを据えています。「ふるさと村」の田畑で収穫した米やそばを使って、精米や製粉も行っています。

円筒分水

円筒分水

円筒分水の画像

水田の水争いを避けるため、公平に水を分けるのに造られた仕組みです。
水をサイホン機能で吹き出させて、水の出口の方向と広さとを調節して、下流に流れる水の量を分けるものです。
岩手県の胆沢(いさわ)平野の土地改良区において、昭和32年に建造されたものが現存していて、この円筒分水はその2分の1のミニチュアです。ここでは、池と田に分水しています。

つかいど

つかいど

つかいどの画像

今日のように水道がなかった時代には、家の前の引き水や掘り井戸を生活用水として使っていました。引き水の掘割りに沿って、石組みなどで作られた階段と洗い場を、宮城県の一部の地方では「つかいど」と呼んできました。

ぬるめ

ぬるめ

ぬるめの画像

山間部の水田では水温が低いために稲の生育に悪影響を与えないように、水温を高める工夫をしています。
「ぬるめ」は水が流れる水路を長くして、そこを流れる間に太陽の熱で水温を高めようとするものです。水田のまわりを一周させたり、水田の手前に水たまりをつくるなどの方式がとられます。
「ぬるめ」とは、「ぬくめる」や「ぬるめる」の略語で、「温める」の意味です。

避難舟

避難舟

「鳴瀬川河畔の家」のように洪水に悩まされてきた地方では、家族が安全な場所に避難できるように日頃から舟を用意していて、「避難舟」や「用心舟」と呼ばれていました。
この舟は、宮城県石巻市に住む老齢の「舟大工(ふなだいく)」が、昔ながらの技法や儀式によって建造したもので、今日ではたいへん貴重なものということができます。
舟の建造にあたっての主な儀式には、次のようなものがあります。

シキハジメ

シキ(舟の底の部分)になる材を作業台の上に乗せ、その上に供え物を供えて舟大工と舟主が拝みます。作業の安全と建造の成功とを祈る行事です。

フネオサメ

完成した舟を舟大工から注文主に引き渡す儀礼です。舟の引き渡しは、舟を舟大工の娘にたとえ、舟主へ嫁入りさせる儀礼に見立てて、婚礼の披露宴の形を取ることが多いと言われています。